ワーク・アズ・ライフ で人生を楽しく生きていく

ライフスタイルとビジネスを枝葉末節に囚われず考察する気まぐれブログ

2年前から(いや、もっと前から)根本的に変わっていない自分を受け入れて、変わらなくてもいい、変わりたいならそれでもいい、そんな風に思う今日この頃日記

前回の記事()から2年と4ヶ月が経過している。

 

基本的には変わってないな。

 

largeforest.hatenablog.com

 

強いていうのであれば、行動しなくても、意識をするだけでもOK!

という思考方法を学んだ(意識承認)ので、書いている当時ほど(あまり覚えていないけど)凹んだり沈んだりはしていない。

 

というか全然凹んだり沈んだりしていない。

 

「意識承認」のさらに根本の「存在承認」、つまり「存在しているだけでOK(生きてるだけで丸儲けw)」のマインドがすっかり出来上がっているからだと自覚する。

 

では、社会的経済的に発展しているかというと、コロナの影響を受けまくって収入は確実に減っている。

 

ただ、不思議と楽しく幸せに生きているんだよな。

贅沢はもちろんしないが、しかし特段ガマンする生活はしていない。

これは自分でも全く驚きでもある。

理由が分からないので、それこそ前出の以前のブログのように

 

こうするともっとうまく行くだろうな、というのを、あえて「しない」という選択肢を選んでしまう性質があるんですよ。

 

というような「なぜ行動しないのかが自分でも分からない」状態に近い状態では在ると自認する。

 

つまり、冒頭に書いたように基本的には変わっていない。

 

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ブログタイトルの『ワーク・アズ・ライフ』は落合陽一氏が以前(4,5年前、それこそこのブログを書き始めた頃。つまり影響されたということだ)提唱していた言葉だ。

 

ワーク・アズ・ライフとは「仕事とプライベートを分けることなく、寝ている時間以外はすべて仕事であり趣味であるという考え方」である。

 

上記はググって出てきたWebサイトからの引用。

本人の言葉ではないので瑕疵があるかもしれない。

 

どっちみち、最近は全然聞かない。笑

もう「それどころの話じゃない」社会になっているからだと想像する。

 

話が逸れたが、仕事とプライベートを分けることなく、というのはなんとなくできている。

 

ただし、仕事もプライベートもどちらも生産性が低い。

個人的には役立たず感がある。笑

 

ただ、それはあくまで本人の感想で、では仕事が全くないかというとそうでもなく、

仕事を受けてくれた方には感謝されている。

ちゃんとマーケティングすればもっと稼げると思うが、思うだけで行動はしない。

《振り出しに戻る》

 

きっと、自分はこんな感じで良いのだと思う。

ギリギリまで低空飛行をして、いよいよ墜落!という直前になったら何かすると思う。

 

あるいは墜落してからのことを考えるかもしれない。

 

いずれにせよ、もういい加減に自分のダメさを受け入れよう。

 

ネガティブになっているようは表現だけども、なんていうか、

頑張るんじゃなくて、自発的に身体と心が動くことをやっていきたいと思うから、

 

逆説的にがんばらないとできないような、向いてないことは極力避けるために、

あえて「そこに行動しない」というアプローチをしていこうと思う。

 

され、これが単なる言い訳になるかどうかは、きっと年末(2021年)になると出ている気がする。

 

何をすればうまくいくか明確にイメージができているのに行動しない病って、何なんだろう?

 

自分ゴトです。


珍しく(?)ネガティブ系な投稿をします。

 

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だいたいうまくいっている時、あまり嬉しくないんですよね。

 


成功体験があると、それに満足して、それ以上のものを求めたくなくなってしまう性質なんです。

 


うまくいってない状態の方が、心理的に何故か居心地が良いというか、

 


いや、やっぱり良くはないんだけど、


しかし「やらなければならないこと」を残している状態の方が、


やらなければならないストックが残っているので、そのストックを言い訳にできるというか、

 


伝わりますかね?


不思議ですよね。


自分でも不思議です。

 

 

 

これは言い訳なんだが、その言い訳があることに心理的な予防線を張っているのかもしれない。

 


類似品に、


・トレーニングしてないから(トレーニングするより大事なことがあるから)、筋肉がない。(筋肉がないことを正当化する言い訳)


・読みたい本があるんだけど、前に読んだ本が終わってないから、とりあえず置いてある。(本を読んでないことを正当化する言い訳)


・意識はしている。しかし、それ以上の行動はしていない。(行動をしないことを正当化する言い訳)


・行動が大事だというが、プランもなく行動をしたらPDCAにならないだろう。

(じゃあ、プランを立てる、という行動をしよう、とも考えては「話が大き過ぎてまとまらない」という言い訳と共に、けっきょく行動しない)

 

 

こうするともっとうまく行くだろうな、というのを、あえて「しない」という選択肢を選んでしまう性質があるんですよ。


これを、根本的に治したいと、もう20年近く考えているかもしれない。

 

 

 

思考と行動が「内観」タイプだと自己分析するのだが、それを実世界に活かすには、けっきょくアウトプットしなければ意味がないことは理解している。

 


しかし、アウトプットが少ない。


仕方ないので、いったんこのブログに書いてみる。

 

1,2年後に、懐かしさと共に、

 

「その先」に行った自分が見返していれば幸いだな、という想いを込めて。

 

いや、そうなるべく誓いを立てて。

 

 

 

 

子どもが生まれた件を、ものすごく客観的に書きたかったので書いてみます。

 

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年末に、子どもが生まれました。

 


里帰り出産で、なんと今日が帰ってきた記念日です。

(そんな日に自分は仕事で外出中w)

 

産後すぐくらいから下書きしてた当記事が、やっと書き終えた記念日でもありました。笑

(気づけば年を越していたw)

 

 

 

明けましておめでとうございます。

 

 


さて、表題の通り、


子どもが生まれた件を、ものすごく客観的に書きたかったので書いてみます。

 

 

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  • 出産で夫が役に立たないなんてウソ。
  • 「自然」な妊娠、分娩で無くても、子どもが生まれる素晴らしさは一切損なわれない。
  • 人はお祝いをしたいもの。
  • 見返りを求めない愛?見返りがある愛?
  • おとなしい子は良い子?

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出産で夫が役に立たないなんてウソ

 


お産では男は何の役にも立たない。

 

そんな話を聞きますが、ウソですね。

 


というか、役に立てることはたくさんあります。

 

むしろ、役に立て。笑

 


応援することしかできない、とも言われますが、

 

まぁ確かにその部分は大きいですが、

 

しかし「応援」というと「声掛け」か「身体をさする」くらいな意味合いに感じます。

 

いやいやもっと具体的なサポートをしないと。

 

お産中は、妊婦は終始脂汗ですから、こまめに顔を拭いてあげないと髪が顔にまとわりつきますし、

 

イキミ逃しでけっこう強く骨盤と骨盤底を支える力を使うし、


イキム時はしっかり身体を支えて押す必要がある。

 


自分の体験では、とにかくお産は大変だったので、暇なことなんて全然ありませんでした。

 

トイレは3回くらい行きましたが、食事は干し芋もひとかけら食べたくらいでした。

 

緊張感がありますから、そんなにお腹も減らなかったです。

 

 

それくらい、共同作業でした。

 

 

出産の瞬間は、産科の先生も助産師さん2人と協力して、妻がイキミやすいように(腹圧を掛けやすいように)

肩甲骨あたりからお腹に力を入れる方向に押し込んで押し出すサポートをしました。

 


レーニングの最後の追い込み的なサポートでした。笑

 


お産が終わった後に妻から、

 

「良いコンビネーションだったね」

 

と言ってもらえたから、役に立てて良かったと、もう自信を持って言えます。( ̄▽ ̄)

 

 

 


「自然」な妊娠・分娩でなくても、子どもが生まれる素晴らしさは一切損なわれない。

 

 


うちは人工授精でした。

 

生まれる時も、帝王切開ではないものの会陰部を切り、吸引でなんとか出てきました。

 


言い換えれば、自然な状態では子どもができることも生まれることもありませんでした。

 

しかし、それで良いと思うんです。

 

 

現代では、人は何をするにもテクノロジーを使います。

 

人はひとりでは生きられない、という概念は、現代では科学技術まで意味合いを広げてます。

 


見ようによっては、生き物として不完全であるかもしれません。

 

しかし、不十分であっても社会の中で役割を持ち、社会に貢献することはできるわけで、生きる価値が損なわれることではないと考えます。

 

 

また、不完全でも子どもを欲するのは生き物としての根源的な欲求であると思いますし

(そう思わないことの否定ではありません)、

 


その欲求を達成するために、ある意味「生命」とは対局にある人工的な科学技術を用いる、というやり方は、すでにこの世界では「自然」なことなんだと実感しました。

 


(分娩で扱われる技術はマンパワーに大きく依存するものでテクノロジーというには程度が低いものなのだろうけど、それでも文明によって構築されたシステムであることには違いないですし)

 

 

 

このあたりは落合陽一氏の『デジタルネイチャー』の世界観とつながると思ってますが、


つまりテクノロジーによって選択肢は増えているのだから、価値観も多様になっているわけで、


つまり男性もお産に対してできることが増えているし、近代の常識を現代に当てはめる必要もないし、

むしろ主体性を持って考えなければならない時代になっていることを強く実感します。

 

 

 

人はお祝いをしたいもの。

 


そして、SNS

 


自分たち夫婦のFacebook史上、もっとも多くの「いいね」とコメントを頂きました。


コメントの一部の方は「おめでとうございます」だけ。


いやいや、返信書きにくいですから。笑

 

 

でも、受ける側としては有難いことですよね。

 


多くの方と関わり合いを持つということは(特に現代においては)、言い方は悪いですが「面倒くさい」面もあるわけですが、


客観的にこの状況をみると、やっぱり有難いことだなー、と理解できます。

 

 

そして、祝う側からしても、出産と結婚は無条件にお祝いをして良いイベントといえます。


「いいね」とかお祝いのコメントをしやすい場でもあり、それに対して誰かに気を使うことのほとんどないですからね。

 

 

そもそも、人をお祝いしたい、という気持ちは人間の社会性のひとつだと思っていて、

 

多くの人は人を祝いたいものなんじゃないかと思っています。

 


しかし現代では「同意を表明する/肯定する」こと自体にストレスがあると感じます。

 


例えばAという意見に同意/肯定すると、それはつまりBという意見を否定したことになる、という風潮があります。

 


実際には肯定でも否定でもない意見って存在するはずなのに、どうも「勧善懲悪」な、敵や味方だと言いたがる風潮がありますからね。

 


うっかり同意や肯定もしにくい。

 

 

 

その点、出産や結婚は、大多数の人にとって幸福なことじゃないですか。


おめでとう!ということが、誰かに忖度せず言える。


多くの人が、そんな機会を欲しがっているのかも知れないなー、と感じた一件でした。

 

 


見返りを求めない愛?見返りがある愛?

 

 


親は子に愛情を注ぎます。


見返りを求めない愛と言われます。


たしかに、赤ちゃんが大人に「何かを能動的に行なう」ことはありません。


というか、できません。

 

しかし、それを補って余りある「可愛さ」をもらえます。


このことが、子育てにおいても、発展して人と人のコミュニケーションにおいて大事なスキルになってくると感じます。

 


大切なのは、赤ちゃんの可愛さを引き立たせるような接し方をすること。


そこを念頭に置くことが、親の役割なんじゃないかと思っています。(検証中)

 

 


おとなしい子は良い子?

 

 

新生児は『単なる反応で動く生き物』です。


意志は…あるかもしれませんが、表現する機能は『泣く』以外ありません。

 

 

一般的に、あまり泣かない静かな子だと「良い子」を言われます。


これには違和感があります。

 

 

別に良い悪いではなく、単に反応の問題なんです。


明確に身体機能の発育度合いによって変わります。


そして発育度合いは、個人差がとてもとても大きいんです。

 

 

けっこう重要なことなんですが『泣かない』ということは『反応が薄い』ということであり、


もしかしたら単なる発達障害かも知れないんです。

 


それなのに、なぜ『おとなしい子は良い子』だと思うのでしょうか?


それは『泣く子は悪い子』の裏返しなような気がしてなりません。

 

 

『泣く子は悪い子』?


もちろん、そんなことはありませんよね。

 

つまり、正確には『泣く子は「大人にとって都合の」悪い子』という暗黙の認識があるような気がしてなりません。

 

 

大人の都合で成長の良し悪しを決められることは、子どもの成長に大きな損失を与える可能性があります。

 

けっこう、大人の都合で子供の良し悪しを決定付けられていることって多いです。

 

育児方法が時代によって変わるのも、時代によってが変わるわけないですからね。


残念な、大人の都合です。

 

 

親として、大人の都合に振り回されないように自己防衛をするために勉強が必須な時代だと感じますし、


このブログも、その一環として書いてみました。

最近、人の話を聞くことで得られることが増えている

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昨日は「女性とアスリート」をテーマにした勉強会に参加してきました。

 

何人かの登壇者の方がいらっしゃり、話を聞く会でした。

 

先日の「ベストブレイン・ウェルネスアワード」の時にも感じましたが、

 

どんな形であれ、人のスピーチを聞くこと、そしてその人と直接お話しする機会があることは、とても楽しいことだと感じました。

 

ようやく「人の話をきけるようになった」という変化が自分にあるのかもしれないです。

 

(スピーチされた内容があると、その後の懇親会も話しやすいものですね。笑)

 

そして、自分一人完結型で仕事をしている自分にとって、

 

  • チームで仕事をすること
  • いろいろな人と協力しあうこと

 

が、これからの自分の課題かと思いました。

 

というか、そのためにはそういうスケール感の仕事を考えないと意味がありませんので、

 

今の自分の仕事から、より多くの方のお役に立てるように、という発想で、

 

そのために、だれにどのくらい何をお願いするのか?

 

そのイメージがなければ、チームでやる意味はないですからね。

 

 

逆に言うと、自分の仕事が、今のクライアントさんを通り越して、

(もちろん、今のクライアントさんを大事にしながら)

 

より多くの方に伝わる仕組みを考えることが、これからの自分の課題であり、

 

そのために他者の協力をどう得るか?

 

そのデザインをしていくこと、コツコツと、淡々と、粛々と、やっていこうと思う最近です。

 

 

 

 

言葉は認識を深め概念を広げる〜「ボディマップ」はボディを超える

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言葉があるからこそ、想像できる。

 

想像できるから、認識できて、概念が広がり、思考が変わり、

 

そして人生が変わる。

 


先日読んだ「脳と体の身体地図」という本を読んで「ボディマップ」という言葉を、ちゃんと知った。


言葉は知っていたが、身体の部分的な感覚にはそれに対応する脳の部分があり、それが地図のように脳全体に広がっているものだと思っていた。


つまり身体のコントロールのことだと思っていた。

 


概ね間違っていないのだが、実際は身体を超える(!)らしい。

 


何か物を持っている時、それも身体の一部として脳は認識することができるらしい。


本では、猿が「熊手」を持ってドライフルーツを取る時に、脳が熊手部分まで「ボディマップ」が広がっていることが実験で分かったらしい。


また、マリオカートのように(本に例として挙げられてた)ディスプレイを見ながらコントロールスティックを持った実験でも、同様にボディマップ広がっていたらしい。

 


後者の「ディスプレイとコントロールスティック」の例はとても興味深く、


つまり「物理的につながっていなくても脳は身体の一部として認識することができる」ということ。


箸で物を掴む感覚、車の運転での車幅感覚などは、なんとなくイメージできる。


(それぞれ、得意不得意が分かれるのは、このボディマップが適切に描けているか否か、の違いであろう。字が下手な自分にも言えること。汗)

 


妻に話すと、ダンスを踊っている時に衣装までどう動くか意識することや、ステージや客席までイメージして踊る、とダンサーである彼女は話してくれた。


まさにそれ、ボディマップであろう。

 


ここで先ほどの「物理的につながっていなくてもボディマップは描ける」という点に注目すると、


認識さえすれば、物理的な距離感は関係ないことが分かる。


もっと言えば、それは物ですらある必要はない。


音は光、空間、論理的な思考や直感力、美的感覚、あるいは時間すら「認識」できれば、おそらくボディマップは広がる。


世の中の「天才」と言われる人たちは、このボディマップが一般の人と一線を画すのではないかと想像する。

 


想像でしかない。自分には分からない。何故ならその地図を持っていないから。


しかし、可能性はゼロではない。脳は変容するから。


脳には【可塑性】があり、変化するもの。


刺激に対して変化するのは筋肉だけでなく脳も変わる。


勉強という負荷を与えることで脳が良くなるのは、脳の可塑性によるものだ。

 


新しい言葉を知ることは新しい認識を得ることになる。

 

認識が広がれば、概念も広がり、思考の方法や大きさも変わる。

 


思考が変われば行動が変わり、人生が変わる。


このあたりは自己啓発系の話でよく出ることだが(笑)、それを脳科学で説明されると説得力があるものだ。笑

 


最後に、ジョジョの奇妙な冒険・第3部より、脳を変容させる名言をひとつ。



もっと、もっと、できると思う。

空気を吸って吐くことのように。

HBの鉛筆をベキッとへし折る事と同じように。

できて当然だと思うこと。

大切なのは「認識」すること。

できて当然と思う精神力なんです。

(表現は一部修正w)

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ジョジョの奇妙な冒険・第3部より引用

 


人間はいつだって可能性に溢れている。

 

#人生賛歌


大森が一貫して伝えたい(主に自分にw)こと。

 

 

 

『ラッキー』について思うこと。


先日、新宿の花園神社の酉の市(一の酉)へ行って、熊手を買ってきた。


一昨年から思いつきで始めた熊手。


商売繁盛のお守りですね。

 

 


今回、いろいろと歩き回り、デザインはなん、予算は明確に(1万5千円!)お店の人に伝えて、選んでいったのだけど、


あるところな「あんちゃん」が、他のトコと比べて大きくない?な熊手を予算の価格と言ってくれて、


妻とLINEやり取りで確認して、買うことにした。

 

 


で、会計のタイミングで、会計担当のおねーさんが、


「これ、2万3千円…」


と呟き、あんちゃんが焦る。


隣にいた社長が数秒考え、


「それで良いよ」


と一言。

 

 


ひとつグレードの高い熊手をゲットしました。

 

 

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あんちゃんは「あとで社長に怒れられます!」と微妙な感じになってたけど、


社長が「運が良かったね。福を持ってってよ。その代わり来年も来て、同じのを(正規の値段で)買ってな!」


と送り出してくれたので、


「(来年のことは分からないけど)頑張ります!」


と伝えて帰ってきた。()←は心の声w。

 

 


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さて、表題の「ラッキーについて」。

 

 


熊手って、縁起物なわけですよ。


なんなら支払う方だって「ご祝儀」的な意味合いがあるも思うんですよ。


それを、安く買ってしまった、と。

 

 

 

自分の中で、なんとなく罪悪感があるというか、


そもそも「ラッキー」というのが、あまり好きでなくて。


なんか、実力ではない、というイメージがある。

 

 


しかし、運も実力の内、という言葉もあるし、


妻も喜んでいるので、


あまり気にしなくて良いのか。と感じて、


その運をどう使うか?ということを考えた方が前向きな気がした。

 

 

なにかを「運ぶ」のが「運」だから、

 

お金や知識同様、溜め込まず、シェアしてフローすることで価値が活きるのかな、

 

と思う出来事だった。

 

 


この説を証明するために、年末から来年、がんばろう。

 

 

 

ビジネススピーチコンテストに出てみた結果

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健康関連の仕事(トレーナー、インストラクター、コーチ、セラピスト、etc…)をしている関係者が自分のビジネスアイデアをプレゼンする大会に出てみた。

 

書類審査の1次選考を通り、実際にプレゼンをする2次審査。

 

結果は、落選。

 

完全に実力不足。

 

というか、すでに経営者として社会に影響を与える仕事をしている人とは、見ている世界が違い過ぎた。

 

人それぞれには役割がある。

職業に貴賎はない。

 

自分の今の仕事は、トレーナーやインストラクターとしてクライアント様に直に接するビジネス。

 

ストックもレバレッジもない

 

だが、それは第2次審査通過者たちと優越を付けるものではないと思っている。

 

しかし今回は『コンテスト』であり、しかも『ビジネスコンテスト』なので、経営者的な面で優越を付ける『ルール』として行なっている以上、そこに及ばなかったという事実は真摯に向き合わなければならないだろう。

 

このシビアな現実は、良い勉強になった。

 

…。

 

いや、全然シビアでもなんでもない。

 

所詮プレゼンなんて言葉だけなので、これを世に出すことを考えたら、全然シビアでもなんでもない。

 

今回のプレゼン大会で、また新たに知り合いになられた方も多く、

 

そして同時にSNSで、こんなこと考えてこんなこと発表した、ということを半ば公表してしまったので、

 

むしろこれから現実にしていかなければならないという、余計な(?)プレッシャーがむしろある。

 

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今回の1番の学びは、

 

たとえ7分間でも気持ちや信念がある人は、それが伝わるものなのだな、ということ。

 

優越を付けるとすれば、その覚悟というか、想いの深さが、圧倒的に足りなかった。

 

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今回の経験で『気づいてしまった』ことは、多々ある。

 

今後の人生を飛躍させなければならないところに、どうやらきてしまったみたいだ。