予測できない事態をアテにしてはいけない。を「遅刻」から考える。
人間はいつも「たぶん、こうなるだろう」予測、予想をしながら生きている。
未来は誰にも分からないのだから、確率はどうあれ、1秒先でも100年先でもなんであれ、未来を想像して生きている。
そして、社会はそれを担保にして動いている、と言っても良い。
なにか大きな話に聞こえるが、ホント身近な話だと、
例えば「遅刻」が良くないのは、その人がいる前提で様々なことが成り立つ未来をみんなが(本人を含め)想定しているのに、
それが欠ける、ということは、みんなにとって不測の事態なわけだ。
(遅刻する、を予測して想定するのも方法だが、そのクオリティは低くなるだろう)
では逆に、遅刻する方は何が問題だったのか。
寝坊する、電車が遅れる、天候が荒れる、などの予測ができなかったから、と言えるのではないだろうか。
どうしても不可避な不測の事態は起こるだろうが、それは稀であり、
多くの場合は、予測しようと思えばできるはずだ。
前日早く寝る。ちゃんと目覚ましを掛ける。
電車やバスの時刻表などをチェックして、他のルートを含めて調べておく。
天気予報を見る。荒れる前に出掛けるなどする。
その予測を元に、明らかに難しいと判断できる場合には、その旨を関係者に伝えれば、
今度は関係者が予測することができるので、リスクは少なく抑えられるだろう。(それでもクオリティは下がるはずだが)
予測が甘いと、あるいはアテにならない予測をしてしまうと、痛いしっぺ返しが来る。
きっと起きれるだろう、
電車は時刻通りなものだろう、
きっと明日は晴れるだろう、
根拠のない思い込みは、遅刻のリスクだ。
予測をすることで、例え不測の事態が起こっても、ダメージは低く抑えられるだろうし、
確率の高い予測を元にした行動は、安心感が高いはずだ。
自分自身のメンタル的な健康のためにも、関係者みんなのためにも、広くは社会のためにも、
予測をする習慣をつけると良いと思う。
軽妙洒脱な閉会式から感じるこれからの日本の在り方
椎名林檎が演出したリオオリンピックの閉会式が全世界的に好評だそうだ。
自分もそう思ったし、世界にそう思ってもらえたことがとても嬉しく感じる。
(いつだったか日本で冬季五輪したときに欽ちゃんが出てきて、ちょっと〝誰やねん〟感が出たのを覚えているので、、、)
今回のは文句なく最先端の技術と演出と、しかし温故知新もある最高なエンターテイメントだと感じた。
⬇︎備忘録。NHK動画。
【ハイライト】吉田選手も笑顔!閉会式完全版。日本選手団を中心に撮影したNHK独自の映像を加えたオリジナル版。レスリングの吉田沙保里選手やバドミントンのタカマツペアも笑顔で行進しています!こちらから→ https://t.co/Xdb0n3n0ug #NHKリオ
— NHKスポーツ (@nhk_sports) 2016年8月22日
⬇︎その閉会式情報として、とても良い記事を紹介してくれたジャーナリストの津田大介氏のツイート。
閉会式のセレモニー関連の記事ではこれが一番情報しっかりしてて良かった。こういう報道増えて欲しいな。 / 【リオ五輪】椎名林檎が五輪の舞台であえて使った「あの曲」その意図は https://t.co/xHJ93rzynS
— 津田大介 (@tsuda) 2016年8月22日
いくつか引用すると、
「今のリアルな東京であり、昔ながらの江戸前を説明する結果になっていると感じました。ですので私は、その軽妙洒脱なストリート感覚を持つ音楽家たちにいつも通りの仕事をしてもらった次第です」
椎名がセレモニーで選んだ曲に、日本の国家的大型イベントで多かった伝統楽器で演奏されたりと、分かりやすい「和」の曲はない。
東京五輪の開会式をきっかけに、侍や忍者、アニメなど海外が考える日本のカルチャーと、現在日本のポップカルチャーとの間にあるギャップを「相殺してゼロ地点にしたい」
「(五輪を通し)今打ち込んでいること、繰り返し鍛錬していることが、どうしたらどのような形で実を結ぶのかというのがイメージができるのは夢があると思う」
もう、なんというか、オリンピックだけでなく、
これからの日本は〝こう在るべき!〟という演出だと言っても過言ではないだろうか。
セレモニーなので、厳かでありつつ、日本のポップカルチャーをふんだんに使っている。
その要素は、
マリオやドラえもんの丸みを帯びた「かわいさ」。
ダンサーや演出の「カッコよさ」や「キレイさ」。
過去のゲームや漫画と、現代の最先端である「AR技術」の融合。
これらの両立は「日本ならでは」だと思う。
この多様性こそが、これからの日本をより日本らしくするものであり、
ひいては世界平和につながる、とわりと真剣に考えています。
いろいろな人の多様な個性が融合して、ひとつの作品、コミュニティ、社会を作ることで、今回の閉会式のような感動的な世界になる!
そんな可能性すら感じさせてくれたセレモニーだと、感動しました。
これからの生き方の指針として、備忘録として書いてみました。( ̄▽ ̄)
相談に乗るのは良いけど、それがあなたの為になっているのか?(無粋な話ですが)
相談に乗るのは良いんだけど、相談している相手が、
「でも〜」
「それはそうなんだけど〜」
「いや〜、俺は性格的にちょっと〜」
って言ってるなら、
そんな相手の相談に乗っていることが、あなたにとって損失にならないか心配です。
優しいからなのか、目下格下と内心で思って心地良いのか。
どっちにしても、無粋な勘ぐり、かな。(~_~;)
戦略を考える。ゴールから考える。
ネット競技(テニス、卓球、バドミントンなど)は、見ていて本当に心臓に悪い。
昔、バレーボールをしていたが、ネット競技は本当に「流れ」に左右されることを実感した。
流れに乗っていても、流れを変えなければならない時も、メンタルの保ち方がとても難しい。
まさにメンタルのスポーツだと思う。
100m走のように10秒しないで終わる競技もあれば、マラソンのように2時間3時間集中を保たなければならない競技もある。
そう考えると、パフォーマンスを発揮するにしても、
どのようなメンタルで、どれくらいの力加減で行なうか、など、
考えることがたくさんあることが分かる。
つまり、戦略がとても重要になる。
【戦略:①勝つための総合的・長期的な計略 ②組織などの運営について将来を見通しての方策】
ただ、力が強い、運動神経がある、体力がある、では、とてもとても太刀打ちできないだろう。
ましてやオリンピックは4年に1度なのだから、4年間のトレーニング、過ごし方にだって戦略は必要だ。
そう考えると、それはアスリートだけではなく、一般の人にとっても重要なことだと分かる。
それぞれがそれぞれのライフスタイルをどう築くか。
どう在りたいか。どう成りたいか。
それを元に、身体の使い方、メンタルの持ち方、姿勢、などなど、
つまり人生の戦略が変わってくるはずだ。
ある本で「入り口を考えるのではなく、出口を考える」という言葉があり、
それはあらゆる場面で適応される言葉だと思った。
どうありたい。どう成りたいか。
それはゴールであり、そのゴールから考えて、日々のライフスタイル戦略を考えていくべきなんだろう。
と、書きながら、
個人的に、目標を立てることが苦手だし、目標よりも日々の瞬間瞬間を考えることが重要だと、何年も考えていた。
今、見えている世界で目標を立てても、
今後見える世界に行ったら、その目標はきっと変わってしまうと思うから。
それならば、今をがんばることで、地力が上がり、
そして見える世界は変わってくるものだと思っているし、
実際にそうやって生きてきた経緯がある。
(それで、成功したか?と言われれば、とりあえず生きていけている、としか答えられないレベルなのだが)
ここらへんの「折り合い」をつけていくのも、今の自分の課題だったりします。
とりあえず、ある程度のゴール(目標)を考えて、それを元に現状を考えて、ライフスタイル戦略を立てていきたいを思う今日この頃。
永遠のヨギーを観て。
ヨガナンダ、という「あるヨギー」の人生を、様々な人の証言と記録からまとめたドキュメント映画です。
ジョージ・ハリスンやスティーブ・ジョブズに影響を与えた人だそうです。
(これがこの映画の最大のキャッチだと思います)
いろいろと文脈とぶっ飛ばして、思ったことを書くと、
このヨガナンダという人は、人の心のことを深く深く知ろうとした人であり、
人の心を深く深く理解していた人なんだろう。
だから、俗っぽく言うと、人の心をつかむスピーチがうまかったのでしょう。
だからヨガという東洋の精神世界の話を、アメリカでは「科学」に置き換えた。
それは、その方が、いや、そうしないとアメリカ人の心に響かないことを理解していたから。
「脳」や「神経」と「スピリチュアル」をつなげたことが、当時の人たちにとってよほどセンセーショナルだったんでしょう。
ということは分かったのだけど、肝心のヨガナンダの凄さ、素晴らしさが、イマイチ感じられなかった。
なぜだろう?
ヨガナンダのことを証言している人たちは、みな誠実だった。
しかし、それは彼ら自身にとっての素晴らしさであり、ヨガナンダ自身の素晴らしさとは、すこし違っていたのかもしれない。
良くも悪くも、ヨガナンダの言葉や行動は、センセーショナルでありキャッチーであったため、
深層のところまでの理解は難しかったのかもしれない。
いや、それは証言者たちではなく、この映画をまとめた監督の理解が浅かった…のかも。
表向きの華やかさと裏側の地味でツライ積み重ね、はどの世界にもあるのだろう。
8/2(tue.)〜4(thu.)まで、東京ビックサイトでフィットネス関連の展示会『スポルテック2016』が開催されてました。
ハードもソフトも様々な関連商品の展示やデモが行われて、
また関連する様々な講演や講義も行われていました。
とある講義の中で、アスリートが世界に勝つための努力の話や、
現在活躍されてる人の研究や、研究結果をどう現場で活かすか、など、
具体的な話が聞けたのが良かったです。
個人的には、自分自身のパフォーマンスはそんなにすごいものにはなれないと思っているし、
クライアント様もアスリートではなく一般向けに行っているので、
世界での戦いに勝つには!
という大きな目的は持っていないのだが、
しかしながら、大なり小なり、
アスリートでも一般でも、
プレイヤーでもコーチでもサポートチームでも、
やはり表向きは華やかでも、裏は地道な努力があってこそである。
それは、どんな業界でも言えることでしょう。
当たり前なのだけど、やっぱりそれが当たり前だと再認識することが、それを忘れないためにも大切だと思ったいち日でした。
いつもと同じ、と思うことは傲慢か怠惰である。
例えば、電車はいつも同じ時間に来るのがあたり前だと思っている。
1,2分の遅れでも気になってしまうくらい、電車は正確に時間を守ってくれている認識があるから。
でも、よくよく考えると、時刻通りに電車を走らせるって、とても工夫と努力のいることであることは、少し想像力を働かせれば気づけることなはず。
例えば、ルーティンワークをする際には、いつもと同じようにすれば良い(むしろ、いつもと同じクオリティを求められる)ものだが、
しかし、マインドとして、いつもと同じでは、そのクオリティは下がるものだ。
「いつもと同じクオリティを保つ」という真摯な気持ちが、正確な「いつもと同じ」を保つ。
人間は、いつもと同じが好きだ。
その方が楽だから。
しかし、それは堕落のラクだし、
そもそも「いつもと同じ」というクオリティを保とうとしている人まで想像が及ばない、
自己中心的な傲慢さか、視野の狭い怠惰さであると思う。
「いつもと同じ」を大切に。
「当たり前」を「ありがとう」に。
そう在りたい。