ワーク・アズ・ライフ で人生を楽しく生きていく

ライフスタイルとビジネスを枝葉末節に囚われず考察する気まぐれブログ

表向きの華やかさと裏側の地味でツライ積み重ね、はどの世界にもあるのだろう。

8/2(tue.)〜4(thu.)まで、東京ビックサイトでフィットネス関連の展示会『スポルテック2016』が開催されてました。

https://www.sports-st.com

 

ハードもソフトも様々な関連商品の展示やデモが行われて、

 

また関連する様々な講演や講義も行われていました。

 

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とある講義の中で、アスリートが世界に勝つための努力の話や、

 

現在活躍されてる人の研究や、研究結果をどう現場で活かすか、など、

 

具体的な話が聞けたのが良かったです。

 

 

個人的には、自分自身のパフォーマンスはそんなにすごいものにはなれないと思っているし、

 

クライアント様もアスリートではなく一般向けに行っているので、

 

世界での戦いに勝つには!

 

という大きな目的は持っていないのだが、

 

しかしながら、大なり小なり、

アスリートでも一般でも、

プレイヤーでもコーチでもサポートチームでも、

 

やはり表向きは華やかでも、裏は地道な努力があってこそである。

 

それは、どんな業界でも言えることでしょう。

 

 

当たり前なのだけど、やっぱりそれが当たり前だと再認識することが、それを忘れないためにも大切だと思ったいち日でした。

 

いつもと同じ、と思うことは傲慢か怠惰である。

例えば、電車はいつも同じ時間に来るのがあたり前だと思っている。

 

1,2分の遅れでも気になってしまうくらい、電車は正確に時間を守ってくれている認識があるから。

 

でも、よくよく考えると、時刻通りに電車を走らせるって、とても工夫と努力のいることであることは、少し想像力を働かせれば気づけることなはず。

 

 

例えば、ルーティンワークをする際には、いつもと同じようにすれば良い(むしろ、いつもと同じクオリティを求められる)ものだが、

 

しかし、マインドとして、いつもと同じでは、そのクオリティは下がるものだ。

 

「いつもと同じクオリティを保つ」という真摯な気持ちが、正確な「いつもと同じ」を保つ。

 

 

人間は、いつもと同じが好きだ。

 

その方が楽だから。

 

しかし、それは堕落のラクだし、

 

そもそも「いつもと同じ」というクオリティを保とうとしている人まで想像が及ばない、

 

自己中心的な傲慢さか、視野の狭い怠惰さであると思う。

 

 

「いつもと同じ」を大切に。

 

「当たり前」を「ありがとう」に。

 

そう在りたい。

 

 

5年後、10年後の絵が見えるのか?

ある大先輩が言っていた言葉。

 

「志しやコンセプト、想いがあれば、何でも良い」

 

「しかし、それで?…になる。」

 

「それで5年後、10年後の絵が見えるのか?」

 

そう考えて、その人はもうすぐ還暦だというのに、新しい別の業界へ転職するそうだ。

 

多くの人と接してきた人だから、普通に話していても、その人間が

 

「5年後、10年後が見えているか?」どうかが、分かるんだろうな。

 

 

自分には、正直、ない。

 

日々が少しずつ良くなる積み重ねの上に、未来があると思っている。

 

しかし、そんな考えは、その人から見たら、甘いんだろう。

 

否定ではなく、長い経験の中で、やっぱりそうなんだよ、という印象だった。

 

と、いうことは、きっとそうなんだろう。

 

 

5年後、10年後、かぁ。

 

(いい年して考えてなかったの?と、ボヤかれそうですが。)

 

 

信じてもらえるから、がんばれる。→相手を信じよう。→信頼に足る自分になろう。

 人って、誰かに信じてもらえるとがんばれるものだと思う。

 

だから、誰か大切にしたいと思う人がいるのならば、信じてあげれば良い。

 

 

たしかに、100%信じられる人なんて、いるかどうか分からない。

 

自分自身のことだって、100%分かるなんて人はいないだろう。

(逆にそんな人は信用ならない。笑)

 

だから、誰かを信じるのは難しいのだろうか?

 

いや。

 

「信じる」というのは、あくまで主体的な言葉であり、

 

つまり、信じたいと思えば、自分が信じれば良いのだ。

 

 

信じよう。

 

そうすれば、相手はそれに応えてくれるだろう。

 

信じ続けよう。

 

 

一方で、自分自身は、他者から信頼を得るための努力をしなければならないと思っている。

 

信じることなんて、押し付けられない。

 

信じようと思ってもらえるかどうかは、全て自分自身の課題である。

 

 

あぁ何ということだ。その女の子は、悪い魔法使いの力を信じるのに、泥棒の力を信じようとしなかった。その子が信じてくれたなら泥棒は、空を飛ぶ事だって、湖の水を飲みほす事だってできるのに…


今はこれが精一杯。

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Do you trust me?

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信じてくれるヒロインがいる時のヒーローは、もれなくカッコイイでしょう?

 

そういうことです。

 

 

 

#信じる #信頼 #今はこれが精一杯 

新しいモノ好きではなく、過去の陳腐化が好きではないかも。

例えばこのブログを書いていると、本業ブログが更新されていなかったりする。

 

何か、もっと別のアプローチで物事を書きたくなってきたので、しばらく更新していないのだけど、

 

それは別に飽きたわけではなく、またネタがないわけでもなく、

 

自分の気持ちでは、より良いもの(ここでは、読者により良い知識を知ったり何かに気づくキッカケになったり)を提供したいという思いがある。

 

しかし、それは他人には分からないし、むしろどーでも良いことであるのも分かる。(ただサボってるか飽きたかと思われるだけ。)

 

 

そもそも、ブログを書くとスッキリした気分になる(自己満足かもしれないが)ことや、

 

子供の頃から「工作」などがすきなものあり、

 

自分はクリエイティブなことをしたい、という性質があると考えている。

 

 

自己分析をすると、同じようなモノを作っても満足が少ないのは、きっと書いているモノに陳腐化を感じているからだと思う。

 

次のステージに行きたい。

 

しかし、書く能力がまだ足りていない。

 

そんな状況になると、ブログが止まる。

 

 

そもそも「同じようなモノ」と言っても、それは自分自身の感覚であり、やはり他人にとってはどーでも良いことで、

 

継続は力というから、陳腐化しようが書き続けて、

 

その中で変容の手段を探し続ける、が正解なんだと感じる。

 

 

良い風に言えば、いつも「より良く」を考えてるし、

 

悪く言えば、言い訳をつけて行動しない自分の正当化をしてるだけ。

 

 

 

 

「 Do more with Less 」は構造的(ストラクチャル)な問題に適応する。

「 Do more with Less 」の概念を説明している(…と、思われる)動画。(英語は分からない。汗)

 

https://m.youtube.com/watch?v=X8lqnO7aYe0 

 

「 Do more with Less 」の生みの親、バックミンスター・フラーは宇宙全体の構造は、完全無欠な相乗効果と言っている。

 

 

例えば、昔は音楽をたくさん聞くための道具として「ジュークボックス」というのがあった。

 

レコードがCDになり、MDになり(黒歴史?)、そしてフラッシュメモリになり、

 

今ではiPodだ。

 

 Do more :よりたくさんの音楽を、より高音質で、

 

with Less :より省スペース、省エネルギー、軽量、低価格で、

 

聞くことができる。

 

姿形を持つものの方が、その構造は理解しやすい。

 

それ以外は適応するだろうか?

 

 

これを人間の身体で置き換えると、どうなるのだろう?

 

ただ身体を大きくすることは、これに反するように思える。

 

しかし、「Do more」 するために、より大きな筋肉を必要とする場合もある。

 

 

また、人生に置き換えるとなんだろう?

 

断捨離がこれに当たるかもしれないが、「with less」であっても「Do more」が足りない。

 

そう考えると「人間関係」が解だと思う。

 

個人よりチームの方が1人あたりの労力が少なく、たくさんのことができる。

 

 

「 Do more with Less 」、まだまだ考えていきたい。

外でビールを飲む、オクトーバーフェストというイベントは、実はとても健全だ。

流行りに乗ってる感が、とても日本人らしい。

 

単なるビアガーデンではなく、とはいえバーベキューほど手間をかけず、

 

フェスタ(祭り)という体でお酒を飲む。

 

音楽やダンスもあり、愚痴を肴に飲むのとは大違いなのかもしれない。

 

そもそも、オクトーバーフェストと言いながら、全くオクトーバー(10月)ではないのは、さておき、

(この辺りも、とても日本人らしい)

 

「昼からビール」を素面で聞くと、なんとなく不健全な気がするが、

 

フェスタとしてみんなで楽しく飲むのは、実は人間としてとても健全なのではないかと思った。

 

事実、悪酔いして暴れるヤツは皆無だった。

 

 

さ、家に帰るまでが遠足…もとい、フェスタですね。