自分が本当にしたいことが、自らの固定概念に制限されていた。
前回、自分の世界の広さは自分が決めている、というブログを書いたのだけど、
今、自分自身にある「殻」をとても感じる。
固定概念に囚われているなーと実感。
いつも、固定だったお客様が離れて気味な最近。
理解はされつつも、なんとなく距離を感じるのは、自分の中での固定概念にあるかも知れないと気づいた。
「今、自分がしている仕事とは、こういうこと。」
という固定概念に、
今、自分ができること全てを発揮できていない気がする。
自分の能力を高く勘違いしている(アドラー的な「優越コンプレックス」になっている)わけでは、きっとない。
自分がされて嬉しいと思うことを、相手にする。
自分が本当にしたいことをする。
そんな、初歩的なことが、自らの固定概念によって制限されていたかも知れない。
あらためて、ふと気づいた。
いや、いろいろなことから気づかされた。
うまくいってない時というのは、反省の機会でもあるが、
あらためて、成長の機会なんだと感じた。
殻、破ろう。
世界の広さは、自分で決めているのだなと実感した件。
とあるプレゼンをしたのだけれども、
それは要するに、とある商品についての効果をプレゼンするようなことだったのだけれど、
その商品の効果はかなり分かりやすく実感を感じてくれたのだけれど、
では、その商品をどんな風にオススメすれば良いか、という具体的な方法が抜けていた。
提供する側(自分)と買う側(お客様)のことは考えていたけれど、
販売したりオススメするスタッフ側に対する想像力が欠けていた、ということ。
どこまで想像力を働かせて、どこまでアプローチするのか?
それは自分自身で判断していることだし、
そしてそれが、自分の世界の広さを決めているのだと実感。
世界を、想像力を、そして自らの自由さを、広げよう!
見えない大切なものを見失わない。目新しいことにた時こそ、大切なこと。
新しいことを学んだり、手に入れたりすると、
それに目を囚われて、
それ以外の大切なことを見失ってしまいがちになることに気づいた。
何か新しいものを手に入れるために、何かを手離すことが必要な時もある。
しかし、何かを手に入れた結果、気づかぬうちに大切なものを失うことだけは避けなければならない。
大切なことは、失ってから気づくことが多い。
なのに、繰り返してしまう性もある。
悲劇とは、こうやって生まれるものかも知れない。
学んだことはアウトプットしなければ!
先日のシルバーウィークに「ヨガフェスタ2016横浜」に行ってきた。
ヨガの様々な講義を受けて、年々気づきが多くなっている気がする。
(毎年忘れているだけかな?)
そして、学んだことを咀嚼し取り込むために、アウトプットしなければいけない。
聞いたようでいて、分かったようでいて、
まとめようとするとイマイチまとまらなければ、
それは分かっていなかった、ということになり、
それをなんとかまとめることで理解が深まり、
そしてようやく「学んだ」ということになるからだ。
人に教えることが最高の学習、なんて言われるが、間違いないことだ。
全ては「拡散」したがる。いかに「収束」させるかという意志の重要さ。それはダイヤモンド。
モノゴトの全ては「拡散」したがる。
拡散することで均衡を保つ、というのが自然の摂理だ。
コーヒーにミルクを入れても拡散する。
これは、人間の身体にもマインドにも言える。
人間も自然の一部なんだと痛感するとともに、
いかに「収束」させるか、人間として重要なことなんだと気づく。
意志の使い方は、収束だ。
つまり、集中だ。
自然界にも「収束」はあり、最も顕著なものが、ダイヤモンドであろう。
大地の驚異的な圧縮による収束は凝固に至り、最高の硬度となった奇跡の物質。
「柔軟性も大事だろ?」が、一方としての意見はありつつも、
今の自分に必要なのは、ダイヤモンドの意志だと気づいた今日この頃。
9月という節目を感じるアレコレ。
残暑を感じる日が続くが、夜は涼しさや秋の気配を感じる。
長く使っていたモノが壊れる。
今までレギュラーで続けてくれているお客さんが、理由は様々あれど、不可避的に中断となるケースが増える。
上記の要素も含め、今までの仕事のやり方、仕事に対する姿勢を変えないといけないな…と直感的に感じる。
(そしてイマイチ変わってないので、業績も下降気味。汗)
新たな学びが増える。
日常の気づきも増えたし、研修など学ぶ機会も増える時期も重なった。
街で一気に「秋」モノが増える。( ̄▽ ̄)
モノであれ姿勢であれ、リニューアルの季節なのかもしれない。
夢見る人へ、夢を見たい人へ、その方法を椎名林檎が教えてくれています
先日のブログ、
軽妙洒脱な閉会式から感じるこれからの日本の在り方 - Takeshi Omori thinks so...
でも書いたのだが、あらためて椎名林檎の「夢」についての捉え方が面白いと感じて再稿。
【リオ五輪】椎名林檎が五輪の舞台であえて使った「あの曲」その意図は
この文末にある
「今打ち込んでいること、繰り返し鍛錬していることが、どうしたらどのような形で実を結ぶのかというのがイメージができるのは夢があると思う」
という言葉は、
夢を見る人へはその具体的な実の結び方を示していて、
夢を見たい(まだ夢がない、夢が見られない)人にとっては、今やっていることへの〝問いかけ〟になるのではないかと思う。
自分自身、今やっていることが、どのような実を結ぶのか、というところまで考えきれてないし、
そもそも「打ち込む」「鍛錬している」レベルか、というと足りないと言わざるをえない。
このあたりが、自分が「夢を見る資格」にまだまだ達していない状況であることを露わにし、
同時に「夢を見る覚悟」の持ち方を教えてくれている。
まずは今、何かを打ち込もう。
何かを繰り返し鍛錬しよう。
そして、どうしたらどのような形で実を結ぶのかというのがイメージしよう。
それが、夢であると思う。