ワーク・アズ・ライフ で人生を楽しく生きていく

ライフスタイルとビジネスを枝葉末節に囚われず考察する気まぐれブログ

「 Do more with Less 」は構造的(ストラクチャル)な問題に適応する。

「 Do more with Less 」の概念を説明している(…と、思われる)動画。(英語は分からない。汗)

 

https://m.youtube.com/watch?v=X8lqnO7aYe0 

 

「 Do more with Less 」の生みの親、バックミンスター・フラーは宇宙全体の構造は、完全無欠な相乗効果と言っている。

 

 

例えば、昔は音楽をたくさん聞くための道具として「ジュークボックス」というのがあった。

 

レコードがCDになり、MDになり(黒歴史?)、そしてフラッシュメモリになり、

 

今ではiPodだ。

 

 Do more :よりたくさんの音楽を、より高音質で、

 

with Less :より省スペース、省エネルギー、軽量、低価格で、

 

聞くことができる。

 

姿形を持つものの方が、その構造は理解しやすい。

 

それ以外は適応するだろうか?

 

 

これを人間の身体で置き換えると、どうなるのだろう?

 

ただ身体を大きくすることは、これに反するように思える。

 

しかし、「Do more」 するために、より大きな筋肉を必要とする場合もある。

 

 

また、人生に置き換えるとなんだろう?

 

断捨離がこれに当たるかもしれないが、「with less」であっても「Do more」が足りない。

 

そう考えると「人間関係」が解だと思う。

 

個人よりチームの方が1人あたりの労力が少なく、たくさんのことができる。

 

 

「 Do more with Less 」、まだまだ考えていきたい。

外でビールを飲む、オクトーバーフェストというイベントは、実はとても健全だ。

流行りに乗ってる感が、とても日本人らしい。

 

単なるビアガーデンではなく、とはいえバーベキューほど手間をかけず、

 

フェスタ(祭り)という体でお酒を飲む。

 

音楽やダンスもあり、愚痴を肴に飲むのとは大違いなのかもしれない。

 

そもそも、オクトーバーフェストと言いながら、全くオクトーバー(10月)ではないのは、さておき、

(この辺りも、とても日本人らしい)

 

「昼からビール」を素面で聞くと、なんとなく不健全な気がするが、

 

フェスタとしてみんなで楽しく飲むのは、実は人間としてとても健全なのではないかと思った。

 

事実、悪酔いして暴れるヤツは皆無だった。

 

 

さ、家に帰るまでが遠足…もとい、フェスタですね。

 

 

 

「 Do more with less 」とは、具体的になんなのか。

「 Do more with less 」は、リチャード・バックミンスター・フラーによる言葉(だそう)で、

 

テンセグリティ構造」のように「より小さいエネルギーで最大限の結果を引き出す」という考え方。

 

彼(フラー)は自身の考えを「デザインサイエンス」と呼び、

 

宇宙全体が完全無欠な相乗効果で成り立っているデザインでできている、

 

と見ていたそうです。

 

 

さて、表題の「 Do more with less 」。

 

日本語でいうと「効率的」とも言えるだろうが、それでは味気ない感じがする。

 

「断捨離」の方が近いが感じがするが、ただ捨てるだけでは「 Do more 」が足りない。

 

シンプルな言葉であるし、そんな世界は夢のようだけれども、

 

実現するにはどうすれば良いのだろうか。

 

 

 手当たり次第の行動は「 Do more with more 」と言える。

 

投資などでいうと、レバレッジを効かせるには?ということだろう。

 

人と人とのつながりによる生産性、というのが思い浮かぶ。

 

とりあえず、このブログでの文章は「 Do more with less 」にしていこう。

 (少ない文字数で多くを含む)(本当だろうか?汗)

 

自分自身への問題提起として、これから「 Do more with less 」ができるように、日々考えていきたい。

 

 

受け入れる、という姿勢が足りないかもしれない。

受け入れるには、受け入れるための容器が必要だ。

 

度量。器量。

 

そういったものがなければ、受け入れることはできない。

 

では、どうやってそれらを手に入れるか。

 

…覚悟かな。

 

現状をよく見る。

 

自分の役割をあらためて考える。

 

想像力を懸命に働かせる。

 

つまり、それこそが「受け入れる」ということなのだろう。

 

 

補足。

 

何を受け入れる?

 

…何であっても。

 

 

選挙を見ていて、インターネットの世界は所詮は非現実なものだということが分かった。

ネットを見ていると、安倍政権批判を多く見るし、その意見は多くの人の同意を得られているかに見える。

 

憲法改定案も、集団的自衛権も、原発も、

 

問題があるとしか思えないように見える。

 

しかし、実際には「改憲派」と言われる人たちが得票数を得た。

 

安倍政権が支持を得た。

 

けっきょくのところ、現実世界の支持団体や組織が、インターネットなんかよりよほど強く、現実であったということだ。

 

つまり、良し悪しではなく、そういう「システム」の社会であることを受け入れるしかないということだ。

 

 

ショーシャンクの空に」を思い出そう。

 

 

不合格になって感じたこと。自分が良いと思っていても、良いと思われるかはわからない。それは基準が違うから。

前回、

 

世間によって決められた正しいは、必ずしも正しいとは限らない、

 

ということを書いたけれど、

 

正しさというのは、基本的に世間が決めたものが優先されるものだ。

 

例えば「試験」というのは、学校なり企業なりが決めた「基準」があり、それに達しているか否かを試すもの。

 

正解があるものがあれば、その基準はブレないが、

 

例えば面接試験だったり、発想や芸術性が問われるものであれば、

 

その基準は試験を与える側の基準になり、

 

受験者の基準で「良い」と感じても、試験側の基準と合わなければ、不合格になる。

 

 

合格したいのであれば、相手の正しさの基準に合わせる努力が必要だ。

 

もし、自分の正しさを優先させたければ、不合格だったとしても、

 

それは「相手の正しさと違った」という結果であるということだ。

 

 

 

と、とある試験に不合格になってあらためて実感したこと。

 

いや、自分を正当化したいわけではなく、

 

不合格の理由、そのフィードバックはとても納得なものだったので不満もなく、

 

むしろ何をもっと意識すれば良いかを知る、自分の成長につながる良い結果だと感じている。

 

 

 

 

「傾向がある」ことを自覚をしよう。受け入れよう。そして対策を立てよう。

 「嫌われる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教え」にあったのだが、

 

アドラー心理学では人間の特性について【傾向がある】という表現をする。


確かに人は【傾向】に流される。


意識の持ち方、気づきのポイント、得手不得手、クセ、姿勢など、人生の全てに【傾向がある】。

 

そうと知れば、それに対策を立てれば人生は変わる。

 

 

心は不安定なものと知る。

 

すぐに流される。

 

では、どの方向に流されるのか?

 

その方向が「傾向」である。

 

流される自分を受け入れよう。

 

 [関連投稿:受け入れる、という姿勢が足りないかもしれない。 http://g.ua/N5jF

 

 それを、客観的に分析しよう。

 

それが「課題」だ。

 

そうと知れば、それに対策を立てれば人生は変わる。

 

 

心は流されるものだから、

流されない心を作ろうと頑なになるよりは、

少しでも良い方向に流される「傾向」をつくろう。

 

 

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え